川添象郎, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=624233 / CC BY SA 3.0
#日本の音楽プロデューサー
#空間プロデュース
#エグゼクティブ・プロデューサー
#慶應義塾幼稚舎出身の人物
#1941年生
#存命人物
川添 象郎(かわぞえ しょうろう、1941年1月27日 – )は、日本の音楽プロデューサー。
別名・川添象多郎。
父は東京飯倉(現:港区麻布台)にあるイタリアンレストラン「キャンティ」を創業した川添浩史(本名・紫郎、旧姓・後藤。川添家の養子となる)、生母はピアニスト・原智恵子(浩史と離婚後、チェロ奏者ガスパール・カサドと再婚)。
祖父は鈴木経勲と共に日本で初めて南洋群島を探検した後藤猛太郎(日活の前身・日本活動フィルムの初代社長)。
明治の元勲、後藤象二郎は曽祖父に当たる。
女優・加賀まりことは幼馴染。
女優・風吹ジュンは元妻。
風吹との間に1男1女。
4番目の妻は 林真理子の小説『アッコちゃんの時代』の「アッコ」のモデルとなった小出明子。
荻野目慶子との不倫で離婚。
また、川添本人もなかにし礼の実名小説『世界は俺が回してる』に主人公・渡辺正文の親友として登場している。
慶應義塾幼稚舎を経て慶應義塾高等学校に学んだが、カトリックの信仰を持つ実母・原智恵子の意向でラ・サール高等学校に転校。
ラ・サール在学中、1959年4月26日に母とガスパール・カサドの婚約が発表され、父により東京に呼び戻されて和光高等学校に転校。
和光高校卒業後、すぐにマグナム・フォト写真家ルネ・ブリやデニス・ストック等の来日時にアシスタントとして就く。
1959年、舞台芸術研究のために渡米し、ラスベガスで働く。
1960年にはニューヨークに移り、フラメンコギタリストとして過ごす。
またオフブロードウェイの前衛ポエトリーダンス『六人を乗せた馬車』(『フィネガンズ・ウェイク』の翻案)に参加し、作曲家の伊藤貞司とともに楽器演奏を担当する。
この作品で脚色と舞台監督を務めた振付師ジャン・アードマンがオフブロードウェイの作品に与えられるオビー賞の特別引用賞を1963年に受賞した。
この作品はその後もアメリカおよびヨーロッパ各地の舞台演劇祭などで上演され、1964年には、当時前衛芸術の拠点であった草月会館にて日本公演を行った。
さらにこの時期にスペインに渡り、帰国後、フラメンコの舞踏団を結成した。
このような経験を基に、芝高輪・光輪閣代表として国際文化交流事業を行っていた父・川添浩史の活動に参加。
1961年シアトル万国博において「文楽」の初のアメリカ公演のステージマネージャーを担当。
1969年、ミュージカル『ヘアー』来日公演のプロデューサーを務める。
1970年2月、『ヘアー』の打ち上げで出演者と大麻パーティを開いて逮捕され、これにより『ヘアー』日本上演は途中で打ち切りとなる。
この事件では執行猶予つきの有罪判決を受けた。
執行猶予期間中にも大麻取締法違反で逮捕(2回目)され、懲役8ヶ月の実刑判決を受け、前橋刑務所で服役した。
1970年、村井邦彦、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立。
小坂忠やガロといったアーティストを輩出する。
その後、村井邦彦と共にアルファレコードを1977年に立ち上げ、音楽プロデューサーとして、荒井由実(松任谷由実)やYMOといった社会現象を巻き起こすようなビッグアーティスト達を世に送り、数多くのヒット曲を生み出した。
ファッション関連ではイヴ・サンローランの日本代表やピエール・カルダンのライセンス開発を手掛け、同時にその他の様々な分野でアーティストのマネージメントやプロモーション活動を行う。
特に日本人アーティストの海外への紹介には積極的で、YMOの世界公演を実現し、絵画芸術の分野では画家・今井俊満の海外プロモーション等の活動を行っている。
バブル景気期の1980年代半ばには、空間プロデューサーや外国人エグゼクティブを相手にした家具リース業などとしても活動していた。
1992年、川添が空間プロデュースをした後楽園のビアガーデンのオープンパーティーに尾崎豊は青山学院高等部時代に知り合った友人たちと参加し、一緒に二次会で芝浦の「Oバー」に行った。
尾崎はその翌日に死去している。
1981年に風吹ジュンと結婚するも1992年に自身の不倫が原因で離婚。
川添にとっては3度目の離婚であった。
その後、「地上げの帝王」こと早坂太吉(最上恒産社長)の愛人だった小出明子と再婚し男児をもうける。
その後も荻野目慶子との不倫を報じられ、まもなく妻と別居。
2007年に整体師の女性と再婚。
その後も、再…