ルイス・ガルシア・ベルランガ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3283226 / CC BY SA 3.0
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#スペインの脚本家
#イタリア共和国功労勲章受章者
#バレンシア出身の人物
#1921年生
#2010年没
ルイス・ガルシア=ベルランガ・マルティ(スペイン語: Luis García-Berlanga Martí, 1921年6月12日 – 2010年11月13日)は、スペイン・バレンシア出身の映画監督・脚本家。
もっともよく知られた作品はキャリア最初期の『ようこそ、マーシャルさん!』(1952年)であり、1960年代のスペインに現れたヌエボ・シネ・エスパニョール(新しいスペイン映画)を象徴する映画監督のひとりである。
脚本家のラファエル・アスコナとは7作品でタッグを組んだ。
同時代のスペインに生まれた映画監督、ルイス・ブニュエル(Buñuel、1900年生)、フアン・アントニオ・バルデム(Bardem、1922年生)とともに、「3人の優れた”B”」と呼ばれ、やや後年のカルロス・サウラ(Saura、1932年生)を加えて「3B1S」と呼ばれることもある。
ベルランガはスペインを代表する映画監督ではあるものの、日本で劇場公開された作品は1本もない。
父方の祖父のフィデル・ガルシーア・ベルランガ(1859-1914)は法曹・自由党の政治家であり、1884年にはウティエルの首長を務め、後にバレンシア県議会で副議長を務めた。
父親のホセ・ガルシーア=ベルランガ(1886-1952)もやはり法曹・政治家であり、自由党や共和主義自治連合党(PURA)から立候補して、1914年から1936年までスペイン国会の議員を務めた。
父親は共和派の不可知論者であり、1936年のパリ亡命後には人民戦線に参加したが、捕えられて死刑(やがて減刑されて無期懲役)を宣告された。
1939年以後のフランコ体制下で父親は刑務所での生活を余儀なくされ、1952年の釈放から6か月後に死去した。
母方は実業家の家系だった。
1番目の叔父ルイス・マルティはバレンシア信託銀行頭取、バレンシア慈善協会会長、ファジェーラ地方議会議長などを歴任し、劇作家でもあったことから、映画人となったベルランガに大きな影響を与えているとされる。
3番目の叔父ホセ・マルティは作曲活動を行っており、ベルランガがもっとも好きだった叔父はホセ・マルティであるとされる。
母親は鼓膜障害を持っていたため専業主婦であり、夫とは違って信仰心の篤い人間だった。
1921年6月12日、ルイス・ガルシア・ベルランガはバレンシアに生まれた。
ベルランガは兄が3人いる4人兄弟の末子であり、女性に対してはひどく内気な性格だった。
1928年にバレンシアの学校に入学したが、1929年には肺の病気が原因で兄のフェルナンドとともにスイスのBeau-Soleil病院学校に送られた。
1930年にはスイスからバレンシアに戻り、その後カバニーリェス学校在学中の1936年にスペイン内戦が勃発した。
共和国派の政治家だった父親の処刑を避けるために、スペイン内戦後の1941年には青師団(スペイン義勇兵)に在籍して、ドイツ軍とともに東部戦線で戦った。
1941年7月には凍死者が多く出るロシア・ノブゴロド近郊への派遣を経験しているが、救急部隊に配属された関係で戦闘には参加しなかった。
1942年にはスペインに帰国した。
スペイン帰国後には地元のバレンシアで大学生協の映画クラブで中心人物のひとりとなり、雑誌やラジオや雑誌などで映画評論を行った。
1947年にはマドリードに設立されたばかりの国立映画研究所(IIEC)に1期生として入学し、研究所では歴史物のパロディ映画を制作し、1951年にフアン・アントニオ・バルデムと共同で脚本・監督を務めた『あの幸せなカップル』が初長編作品となった。
この作品にはフェルナンド・フェルナン・ゴメスやエルビラ・キンティーリャが出演しており、コメディを基盤に据えながらも社会批判を盛り込んでいる。
映画を「娯楽の王様」と割り切って制作する古い時代の監督とは異なり、映画を新たな芸術の表現手段として捉えたベルランガとバルデムは、1950年代以後に登場する新しい映画人の代表格とされている。
1952年の『ようこそ、マーシャルさん!』は、スペイン映画が国際舞台で評価を受けるきっかけを作った映画とされる。
1953年のカンヌ国際映画祭でユーモア映画・脚本賞を受賞し、ヴェネツィア国際映画祭では審査委員長を務めていたハンガリー系アメリカ人のエドワード・G・ロビンソンが作中でのアメリカの扱いに憤慨した。
この映画はスペイン…