カルロス・サウラ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=243781 / CC BY SA 3.0
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#スペインの脚本家
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#1932年生
#存命人物
カルロス・サウラ(スペイン語: Carlos Saura, 1932年1月4日 – )は、スペイン・ウエスカ出身の映画監督・脚本家。
2002年のサウラ 母親はピアニスト、兄のアントニオ・サウラは画家である。
ティーンエイジャーの頃には写真を学び、1949年から写真家としても活動した。
1950年には16mmカメラで初の長編映画を製作した。
アラゴン地方のウエスカからマドリードに出て、いったんはエンジニアへの道を歩み始めたが、写真と映画への情熱から、1952年に映画調査・研究インスティテュート(IIEC、後のスペイン国立映画学校)に入学。
映画製作の勉強に加えて、ジャーナリズム学校でジャーナリズムも学んだ。
1957年にはIIECを卒業し、『日曜日の午後』でスペインでの映画製作に必要な映画監督資格を取得。
1958年からはIIECで教鞭をとったが、1963年にはフランコ政権の検閲が原因でIIECを離れた。
在学中の1955年から短編映画の製作を始め、1958年に『Cuenca』で長編映画監督としてデビュー。
1962年の『Los Golfos』はマドリードの最貧地区を社会学的観点で撮影した作品であり、スペイン・ネオリアリズムの形成を試みた。
1966年の『狩り』と1968年の『ペパーミント・フラッペ』で二度のベルリン国際映画祭監督賞を受賞している。
サウラと交際していたジェラルディン・チャップリン 1974年には『従妹アンヘリカ』で第27回カンヌ国際映画祭で審査員賞を、フランシス・フランコが死去した後の1976年の『カラスの飼育』で第29回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞している。
1979年の『ママは百歳』は、1980年の第52回アカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされた。
1960年代から1970年代にはスペインを代表する映画監督であった。
1980年代に入り、1980年には第1回スペイン映画国民賞を受賞した。
1981年に『急げ、急げ』が第31回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。
その後製作した『血の婚礼』(1981年)、『カルメン』(1983年)、『恋は魔術師』(1986年)は「フラメンコ三部作」として知られる。
『カルメン』は第36回カンヌ国際映画祭で芸術貢献賞を受賞し、『恋は魔術師』はフラメンコの踊り手であるクリスティーナ・オジョスを題材としている。
1988年の『エル・ドラド』はスペイン史上最高の製作費をかけた作品となった。
1989年の『La noche oscura』は第39回ベルリン国際映画祭に出品された。
1991年には『歌姫カルメーラ』でゴヤ賞の作品賞と監督賞を受賞。
1992年にはバルセロナオリンピックの公式映像ディレクターに選出され、1993年に『マラソン』を発表した。
2004年にはヨーロッパ映画賞の生涯貢献賞を受賞。
2008年にはムンバイ映画アカデミーが主催する第10回ムンバイ国際映画祭で功労賞を授与された。
2013年、第18回ケララ国際映画祭で功労賞を授与された。
フラメンコやスペインの伝統的舞踊を取り上げた作品を多く製作している。
サウラは『Buñuel y la mesa del rey Salomón』に対して、「私が今までに製作した中で最高の作品である。私はブニュエルもこの映画を愛すると信じている」と語っている サウラは3度結婚しており、4人の女性との間に少なくとも7人の子供を儲けている。
1957年にはアデラ・メドラーノとバルセロナで結婚し、1958年に長男カルロス・サウラ・メデラーノ(映画助監督・製作者)を、1960年に次男アントニオ・サウラ(映画製作者・著作家)を授かった。
1982年12月27日にはメルセデス・ペレスと結婚し、(結婚前の)1980年には長男を、1984年には次男を、1987年には三男を授かった。
この2人との結婚期間の間には女優のジェラルディン・チャップリンと交際(結婚はせず)しており、1974年後半には長男を授かっている。
その後エウラリア・ラモンと3度目の結婚を行い、1994年に長女アンナ・サウラ・ラモン(女優)を授かった。