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岸部一徳

岸部一徳, by Wikipedia / CC BY SA 3.0

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岸部一徳

岸部 一徳(きしべ いっとく、本名:岸部 修三(きしべ しゅうぞう)、1947年1月9日 – )は、日本の俳優、ミュージシャン、ベーシスト、作詞家。旧芸名:岸部 修三(きしべ おさみ)、岸部 おさみ。愛称:サリー、一徳兄さん。ザ・タイガース、PYG、井上堯之バンドのベーシスト。身長181cm。京都府京都市出身。京都市立伏見工業高等学校建築科 卒業。所属事務所はアン・ヌフ。

京都市で生まれ育つ。9人きょうだいの三男(すぐ下の四男が岸部四郎)。父親は元憲兵であった。小学1年生の途中で伯母(父の姉)を頼って熊本県へ引っ越すが、一年後には再び京都へ戻る。その後も小学校だけで4回ほど変わるなど転校が多かった。京都市立北野中学校で瞳みのると同級生となり、ともに牛乳配達のアルバイトをするなど親交を結ぶ。京都市立伏見工業高等学校建築科に進学、住居も左京区となる。別の高校に進んだ瞳とは交友がいったん途絶えるが高校2年生の頃に四条河原町で再会、森本太郎や加橋かつみも加えた4人で遊ぶようになった。1964年12月12日には地元の京都新聞夕刊の読者写真コンテストに「踊る若者たち」というタイトルで入選した作品に偶然写ったこともあった。翌1965年に、4人によってバンド「サリーとプレイボーイズ」が結成され、これが「ザ・タイガース」の母体となった。このバンド名は当時の岸部が、『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)に引っ掛けて「サリー」と仲間からあだ名されていたことに由来する。「サリー」のあだ名は後のザ・タイガース時代にも愛称となった。岸部はバンドでベーシストを務める。1966年にはボーカルに沢田研二を加えてバンド名を「ファニーズ」と改称、京都や大阪で高い人気を得る。その年の11月に上京、グループは「ザ・タイガース」となった。同時にファニーズ時代の瞳に代わってグループのリーダーとなる。また、グループを上京させた内田裕也の命でメンバーの芸名を決めた際、本名の読みを「おさみ」に変えている。

1967年2月5日、シングル『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。B面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・スパイダースとは異なる若手GSとして脚光を浴び、ボーカルの沢田や瞳の大人気も相まって、シングル4枚目の『君だけに愛を』で一気に頂点へ上り詰め、以降解散まで「GSの王者」として君臨する。

ザ・タイガース時代にはベーシストとしてだけでなく、一部の楽曲では本格的なバリトンヴォイスを披露した。。

1969年にはメンバーの加橋かつみの脱退を受け、岸部四郎を帰国させ、新メンバーとして加入させる。そして1970年には、岸部四郎(通称シロー)と『サリー&シロー』名義でアルバム『サリー&シロー トラ70619』を発売した。沢田単独でのテレビ出演などが増えてきたこの頃には、「10円コンサート」などのロックフェスティバルに、沢田を除くタイガースのメンバーにムッシュかまやつ、ミッキー吉野らを加えた布陣で『岸部おさみグループ』と名乗り出演することもあった。1971年1月24日、日本のミュージシャンとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってグループを解散した。

1971年2月1日に元ザ・タイガースの沢田研二、元ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、元ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之らとPYGを結成し、同年4月シングル『花・太陽・雨/やすらぎを求めて』でレコードデビューした。この曲では、岸部が作詞を担当している。PYGはスーパー・バンドとして期待され、楽曲のレベルも高かったが、なぜかヒットには至らなかった。しかし、現在でもラジオでオンエアされるなど、芸能システムから自由な立場で制作されたロック・グループPYGの評価は高い。

岸部自身が志向していた音楽はディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバスといったハードロックであり、ライブではそういったレパートリーも数多く演奏していたが、所属事務所である渡辺プロダクションのあくまでも商業ベースを貫く姿勢に、オリジナルにおいては思うような音楽が出来ず、また1972年中盤からは、既に俳優としての活動が多くなっていた萩原の主演するテレビドラマ『太陽にほえろ!』が人気番組と…