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小泉今日子と志村けんの親子コント 柏原芳恵のトランポリン ショートコント【8時だョ!全員集合/ドリフ大爆笑】



伝説のお笑いグループ
1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。

ドリフメンバー
いかりや長介
1931年11月1日 – 2004年3月20日(72歳没) 本名:碇矢 長一(いかりや ちょういち)

ドリフ加入:1962年(桜井輝夫とドリフターズ)
担当楽器:ベース
ドリフの三代目リーダー。1964年より正式リーダーとなる。新生ドリフでは加藤と並んで最古参メンバーだった。
コントでは、わざと汚れ役の権力者を演じ、加藤や志村の仕返しというパターンで笑いを取ることが多かった。
ワンマンな一面があり、コントネタの厳格なまでの作り込みや、ギャラの配分(いわゆるワリ)をめぐってメンバーと衝突することも少なくなかったが、新生ドリフを立ち上げて以降は、そうした厳しさを含めた采配ぶりによって、メンバーを見事にまとめ上げた。
1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の出演をきっかけに本格的な俳優としての活動を始め、日本テレビ系『取調室シリーズ』やフジテレビ系『踊る大捜査線』などでシリアスな演技を見せた。
2004年3月20日15時30分、原発不明頚部リンパ節癌のため死去。

荒井注
1928年7月30日 – 2000年2月9日(71歳没) 本名:荒井 安雄(あらい やすお)

ドリフ加入:1964年9月(高木と同時に)
ドリフ脱退:1974年3月
担当楽器:オルガン(ピアノ)
二松學舍大学文学部卒業。
クレージーウエスト時代にピアノの欠員が出て、それまで担当していたスチールギターから急遽転向した経緯があったため、ロカビリーのスリーコードしか弾けず、演奏できるレパートリーは数少なかった。いかりやの著書によれば、いかりやは彼のレパートリーの少ないことを知らないままヘッドハンティングしたこと後悔したという。
ドリフ入りした当初は「リーダー(いかりや)より年上では何かと問題がある」ということで、加入後しばらくは高木とほぼ同年代(1934年7月30日)としていた。なお、当初は他のメンバーですら正確な年齢を知らなかった。
1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退するが、その後も度々ゲスト出演するようになった。
荒井が亡くなる直前の2000年の正月放送の「フジカラー」・フィルムのCM撮りに出演。
2000年2月9日4時30分、肝不全のため死去。

志村けん
1950年2月20日 – 2020年3月29日(70歳没) 本名:志村 康徳(しむら やすのり)

ボーヤ加入:1968年2月
見習い昇格:1973年12月
ドリフ加入:1974年3月
担当楽器:加入直後はキーボード、その後ギターへ転向
1968年ボーヤとして採用され1973年見習いへ昇格し1974年荒井の脱退と共にメンバー加入
いかりやに直々に懇願しドリフの付き人となるが、1年余りで脱走。志村の著書では、あくまで「社会勉強のための休養」となっている。その後、加藤の口添えで出戻り、加藤の付き人兼加藤家居候を経て、お笑いコンビ「マックボンボン」を結成。日本テレビ『ぎんぎら!ボンボン!』も担当したが、人気が出ず2年余りで解散。脱退を表明した荒井の後釜として、1973年12月にドリフ見習いとなり、1974年3月9日に正式メンバーとなる。
加入後、2年近くはギャグが受けずスランプ状態に陥っていたが、「東村山音頭」や「カラスの勝手でしょ」で一気にブレイクし、子供の人気を獲得。さらに新たなネタやギャグを連発し、ドリフの一番人気になった。
映像では荒井の脱退後に初期はキーボード、のちにギターを弾いており元々コメディアン志望ではあるが、ソウル・ミュージックに精通しており、三味線の腕もプロ並みであった。
「一人になった時に、何かが現れる」という台本通りのコントでは、客席の子どもたちが舞台に向かって一斉に「志村!うしろ、うしろ!!」と本気で声援を送るという恒例のパターンを生み出した。
仲本同様、1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検のうえ起訴猶予処分となった。
康徳名義で中央競馬の馬主としても活動していた。
1970年代からビートルズのレコードコレクターとして、所有している種類や枚数はかなりの数である。自身の番組内にビートルズナンバーを度々使用している理由の一つでもあった。
メンバーの中で唯一独身だったが、女性との交際歴は非常に多く、本人が公表しているだけでも10人を超える女性と同棲を重ねていた。
歴代ドリフメンバー(すわしんじは除く)で唯一、戦後生まれである。
2020年3月29日23時10分、新型コロナウイルスによる肺炎のため死去。

加藤茶
1943年3月1日(78歳) 本名:加藤 英文(かとう ひでゆき)

ドリフ加入:1962年(桜井輝夫とドリフターズ)
担当楽器:ドラム及びボーカル
1964年のドリフ再結成当初は最年少だった。いかりや没後、現行ドリフでは最も古い結成メンバー。
結成当時からメンバー内の一番人気であり、いかりやから落ちの期待を一身にかけられていた。ドリフを実質的に牽引し、メジャーに押し上げた功労者でもある。いかりやと衝突することもあったが、グループ内ではメンバーといかりやの人間関係の調整役を果たしていた。いかりやの葬儀の際には弔辞を読んだ。
ドリフの映画では、いかりやと共に物語の中心を担い抜群のコメディセンスを発揮している。演じるだけでなく作者センスもあり、当時は放送作家として接触した小林信彦は、余ってしまったセットを使って、30秒以内に収まるコントを何かその場で考えて欲しいといきなり言われ、加藤が15分ほどでまとめてしまった場を目撃し、後年の著書『テレビの黄金時代』に記している。
国民的人気者だったが、「あの時キツかった。しんどくてネタもあまり出なくなってきた」とし、荒井が脱退したいと加藤に相談した際に二人でいかりやに話そうと約束。しかし、荒井がさっさと一人で話をしてしまい、「大変なことになったぞ」と話すいかりやに脱退の話を言い出せなくなり、そのままメンバーとして残ることになった。
志村がブレイクした後は志村とコンビで笑いを取る場面が多くなったが、志村のボケ・ツッコミの受け役に回ることも増え、結果としてドリフの一番人気の座を志村に譲ることとなったが、それは本人が自ら志村のサポートに回った結果である。実際、「志村がいて助かった」と公言している。志村の著書でも、「後から入ってきたくせにいいところを取りやがって」というようなギスギスしたライバル関係はなかったと語られており、いかりやの時と同様、志村が死去した際にも弔辞を読み上げている。

高木ブー
1933年3月8日(88歳)  本名:高木 友之助(たかぎ とものすけ)

ドリフ加入:1964年9月(荒井と同時)
担当楽器:リードギター、志村加入後はキーボードへ転向
中央大学経済学部卒業
自称、いかりや没後の四代目リーダー。初期ではコント内での出番はあまり多くなく、「何もしない、何もできない」「出ない、喋らない、笑わせない」など無能キャラとして扱われることが多かったが、「ドリフの中では最も音楽性が高い」とのいかりやの評価もある。
ドリフ脱退が決定していた小山威の後釜ギターとして仲本をドリフに誘った人物。仲本を誘う際、嘗てのハワイアンバンドのメンバーである青木健か仲本のどちらをドリフへ誘うべきか悩んだが、いかりやがあまりにも早急にメンバー補充を求めており、直ぐに連絡がつき、なおかつ対バンした事もあった仲本を誘ったという本人の証言がある[3]。
ドリフが音楽活動をやめた理由を「志村がギターしか弾けないので自分がキーボードを担当した。しかし、自分は荒井ほどキーボードが弾けなかったのでドリフは音楽活動をやめた」と発言している。
1984年9月14日、『全員集合』のリハーサル中にアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱したこともある。
大変な愛妻家としても有名で、その愛妻と早くに死別してからも再婚せずに独身を貫いている。荒井注を含むドリフのメンバーの中で唯一離婚歴・再婚歴がなく、また複数の女性と関係を持ったこともない。

仲本工事
1941年7月5日(80歳) 本名:仲本 興喜(なかもと こうき)

ドリフ加入:1965年
担当楽器:ロック系メインボーカル及びギター
学習院大学政治経済学部卒業。
東京商工会議所の内定を得ていたが、高木が脱退するギタリスト小山威の後釜として仲本をいかりやに紹介し内定を蹴って1965年ドリフ入り。ビートルズの前座で「ロング・トール・サリー」のボーカルを取ったのも彼である。
コントでは、「要領のいい、リーダーに媚を売る役」、「一見まともそうだが、内心何を考えているのか分からない役柄」を演じることが多く、特に目立った特徴はないものの全てのメンバーにしっかり合わせられる器用さがあった。学生時代に体操部で身につけた床運動(マット体操)での軽快な身のこなしを得意としており、その運動神経を活かした身体を張ったキレのある動きが持ち味であった。
1981年2月18日には競馬のノミ行為が発覚し、謹慎1カ月、書類送検の上略式起訴された。賭けた金額は当時の金額で約100万円だった。

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