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和田毅



和田毅, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=126275 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#在アメリカ合衆国日本人の野球選手
#早稲田大学野球部の選手
#福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手
#シカゴ・カブスの選手
#最優秀選手_(NPB)
#パシフィック・リーグ最優秀新人_(NPB)
#最多勝利_(NPB)
#ゴールデンスピリット賞受賞者
#NPBオールスターゲーム選出選手
和田 毅(わだ つよし、1981年2月21日 – )は、島根県出雲市出身のプロ野球選手(投手)。
左投左打。
福岡ソフトバンクホークスに所属。
夫人は元グラビアアイドルで元タレントの仲根かすみ。
仲根の実母は以前、元プロ野球選手の佐藤道郎と婚姻関係にあったため、佐藤とは遠戚であった。
1981年、母親の実家である山形県で生まれ、幼少期は愛知県江南市で過ごす。
野球を始めたのは1987年(昭和62年)で、愛知県江南市立藤里小学校1年のとき、地元の「江南団地野球」に入ったのがきっかけ。
1991年、島根県出雲市へ転居。
高校は父の実家に近い同県浜田市の浜田高校に進学する。
なお父は日本体育大学時代、首都大学野球連盟リーグで首位打者1回・ベストナインに2度選出されている。
実弟も立教大学で活躍後、2016年には浜田高校硬式野球部監督に就任している。
浜田高校では1997年度の第79回全国高等学校野球選手権大会に2年生エースとして出場。
初戦でエース・石川雅規を擁する秋田商業高校と対戦。
3対1と2点リードで迎えた9回裏、連打を許し無死1、2塁から、3塁線への送りバントを和田が1塁へ悪送球、カバーに入った右翼手も悪送球する間にランナー2人が生還、同点に追い付かれると同時にバントしたバッターも3塁に達し、続く2人を敬遠し満塁策をとるも、続く打者石川にストレートの四球を与えてしまいサヨナラ押し出しで敗れる。
翌1998年(平成10年)度の第80回全国高等学校野球選手権大会ではベスト8に進出。
初戦は富樫和大-加藤健のバッテリーを擁する新発田農業高校に勝利。
続く3回戦で森本稀哲を擁する東東京代表帝京高校と対戦、森本に本塁打を打たれるが、試合は3-2で勝利。
次の準々決勝では古木克明を擁する豊田大谷高校と対戦、延長10回3-4で敗れた。
前年の秋に上腕三頭筋を断裂していたこともあり、直球はこの当時120km/h程度であったが、帝京高校の選手は「150km/hに見えた」と証言している。
早稲田大学人間科学部に進学。
1年秋、9月12日の東京大学戦で東京六大学初登板。
同級生のトレーナーと試行錯誤を重ねて、フォームにさらに磨きをかけた。
それにより高校時代には130km/hにも満たなかった球速が2か月で140km/hを超えるまでになっている。
2年春から先発陣に仲間入りし、群を抜くペースで三振を奪い話題を集めた。
また、打撃に優れ、高校時代はクリーンナップを務めた。
2002年には江川卓の持っていた東京六大学野球連盟奪三振記録443を更新し、通算476奪三振まで記録を伸ばした。
早稲田の「ドクターK」と呼ばれ、プロ注目の投手として各球団が争奪戦を展開した。
なお、この世代には他大学にも好投手が揃っており、法政大学の土居龍太郎・慶應義塾大学の長田秀一郎・立教大学の多田野数人らとしのぎを削っていた。
4年時はエースとして早大52年ぶりの春秋連覇達成に貢献し、2季連続でベストナインに選出。
藤井秀悟から継承した背番号18を早大の左投手のエースナンバーとして定着させた。
リーグ通算62試合登板27勝13敗、防御率1.35、476奪三振。
27勝は、早大の左投手として最多。
己に厳しくひたむきな練習姿勢は下級生の鳥谷敬・青木宣親・比嘉寿光・由田慎太郎らに影響を与え、それが早大野球部史上初の4連覇を達成する元となった。
同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で木佐貫洋・永川勝浩擁する亜大に敗れ、明治神宮野球大会でも準決勝で東北福祉大に敗れ日本一は果たせなかった。
2002年のドラフト会議では自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団。
背番号は21。
入団の理由に、秋山幸二の引退試合での、福岡のファンの温かさへの感動を挙げている。
また、実際に福岡ドームに試合を観戦しに行き、熱い声援が早慶戦に似ていたことも挙げている。
ホークス時代(2011年) 2003年は1年目から先発ローテーションの一角を担い、チームの優勝に貢献した。
26試合の登板で14勝(5敗)を挙げ、新人王を満票で獲得した。
阪神タイガースとの日本シリーズでは3勝3敗で迎えた第7戦で完投し、日本一の胴上げ投手となっ…