フアン・アントニオ・バルデム, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3284782 / CC BY SA 3.0
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#1922年生
#2002年没
フアン・アントニオ・バルデム(スペイン語: Juan Antonio Bardem, スペイン語発音: [xuan baɾˈðen], 1922年6月2日 – 2002年10月30日)は、スペイン・マドリード出身の脚本家・映画監督。
同時代のスペインに生まれた映画監督、ルイス・ブニュエル(Buñuel、1900年生)、ルイス・ガルシア・ベルランガ(Berlanga、1921年生)とともに「3人の優れた”B”」と呼ばれ、やや後年のカルロス・サウラ(Saura、1932年生)を加えて「3B1S」と呼ばれることもある。
2002年度には名誉ゴヤ賞を受賞し、2011年にはマドリード・ウォーク・オブ・フェームのひとりに選ばれた。
1922年6月2日にマドリードに生まれた。
それぞれ俳優・女優だった両親の希望で、スペイン内戦後の1943年に大学に入学して農業工学を学び、1946年にはスペイン政府農業省で働きはじめた。
1947年に国立映画研究所が設立されると1期生として入学。
しかし、卒業制作は教授陣に認められず、映画監督のクレジットに必要な監督資格を授与されなかった。
1950年にマドリードのイタリア文化会館で開催された映画祭でイタリアのネオレアリズモに強い影響を受け、映画研究所同期のルイス・ガルシア・ベルランガと共同で脚本・監督を務めて1951年に『あの幸せなカップル』を撮った。
この映画は公開までに2年間を要したため、再びベルランガと共同で脚本を書いて『ようこそ、マーシャルさん!』を完成させた。
『ようこそ、マーシャルさん!』はスペイン映画が国際舞台で評価を受けるきっかけを作った映画とされ、1953年のカンヌ国際映画祭でユーモア映画・脚本賞を受賞。
バルデムとベルランガは新時代のスペイン人映画監督の象徴的存在だったが作風は異なり、バルデムは辛辣な社会批判を盛り込んだシリアスなドラマを好んだが、ベルランガはブラックユーモアあふれるコメディを好んだ。
1954年の『役者』はかつて書いた脚本を基に撮影した作品であり、第7回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されている。
当時のスペインはフランコ独裁時代であり、スペイン映画が国外で上映されるのは稀なことだった。
1953年には映画雑誌「レンズ」を創刊しており、同誌とサラマンカ大学生協映画クラブは1955年5月にサラマンカで国民映画会議を主催。
この会議にはバルデムやベルランガの他に、俳優・監督のフェルナン・ゴメス、小説家のビスカイーノ・カサス、言語学者のフェルナンド・ラサロ・カレテールなどが参加し、検閲や映画批評のあり方、法制度や労働契約などが話し合われている。
バルデムがスペイン映画に対して「政治的には無効、社会的には偽り、知的には最低、美的には無価値、そして、産業的には脆弱」と分析したことは後々まで語り草となっている。
これを機にスペイン各地に映画クラブが誕生し、サラマンカ国民映画会議はスペイン映画史における歴史的事件のひとつとなった。
1955年の第8回カンヌ国際映画祭では審査員を務めた。
1955年の『恐怖の逢びき』と1956年の『大通り』は1950年代のスペイン映画を代表する作品であり、スペイン映画史に残る不朽の名作とされている。
『恐怖の逢びき』は人妻とその浮気相手が起こしたひき逃げ事件を描いたサスペンス映画であり、同年のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞を受賞した。
カルロス・アルニーチェスの戯曲を原作とする『大通り』では撮影中に逮捕された事件もあったが、ヴェネツィア国際映画祭の国際映画批評家連盟賞を受賞した。
1958年には『La vengeanza』でアカデミー外国語映画賞にノミネートされ、この作品は第11回カンヌ国際映画祭にも出品された。
1958年には制作会社のウニチを共同設立して社長となり、この会社は亡命していたルイス・ブニュエル監督が久々にスペインで撮った『ビリディアナ』(1961年)を制作した。
コメディ映画を得意としたベルランガとは対照的に、バルデムはシリアスなドラマ映画を得意としたが、フランコ独裁政権下では検閲の影響で思うような映画が取れなかった。
バルデム自身はフランコ体制下で公には存在が認められていないスペイン共産党(PCE)員だった。
1962年の『無実の人』はどうしても検閲に通らなかったため、アルゼンチンに赴いて撮…