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【主日礼拝LIVE配信】2024年5月5日@山手町教会動画配信サービス



おはようございます。本日の主日礼拝は10:30からです。私たちとともにオンライン上で神様に礼拝をささげたい方、大歓迎です。チャンネルは礼拝開始10分前から開き、開始5分前には会堂内の音響が流れ礼拝に向け、堂内の皆様とひとつ心になって備えることができます。心から主を賛美し、ともにいけるまことの神様に礼拝をおささげしましょう。

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2024年5月5日 主日礼拝説教要旨
説教題:『法を越える主のみ教え』
聖 書:マタイによる福音書5章20~26節

 早くも名作と噂される今期の朝ドラ「虎に翼」。ヒロインの寅子(伊藤沙莉演)がハスキーヴォイスで呟く「はて?」も人気だが、彼女たちの「法とは何か?」を巡るやり取りも興味深い。弱き者を助け、暖める毛布のようなもの、権力に対抗する武器、更にはきれいな水をたたえた水源など、色々なコメントが出てきたが、道内の法律事務所のwebサイトに「法律は最低限の道徳を定めたもの」というタイトルを見つけた。その中には「おそらく多くの方々は法律が介入するような低次元のところでは生活しておらず、法律とは無縁の高いレベルの常識や道徳のもとに生活していると思われます」とのコメントが。成る程と思わされた。
閑話休題。今朝の箇所から五章の最後までは二〇節において提起されたパリサイ人の義とそれに勝る「あなたがた」、即ち主の弟子たちの義の対比という図式に入れて読むと理解がしやすい。今朝はその第一として、犯罪に関する取扱いについて分かち合いたい。

Ⅰ.殺してはならない

イエスは当時のユダヤ人の論戦の定式に則り、「~はあなたがたの聞いているところである(21節)」と切り出す。「殺すな」は十戒の第六戒にもある、基本的な教えである。ここで問題になるのは「殺す者は裁判を受けねばならない」という口語訳の訳語だ。ある注解者はここでの「殺す」は犯罪としての殺人であり、旧約において、その裁きは死刑しかないと指摘している。そう考えれば、ここの意図は、「あなたは人殺しをしてはならない。なぜならあなたは法によって裁かれ、殺されねばならないからだ」と言ったものになるだろう。現代社会では「死刑になっても構わない」「奴らを殺して死刑になれば本望だ」と嘯く、いわゆる「無敵の人」の存在がクローズアップされ、そういう人に対しては「死刑」に犯罪を抑止する効果があるのだろうかという議論もなされているが、当時一般的であった解釈では、殺人したものは、その行いによって裁かれ、殺されてしまう。だから殺すべきではないのだ。というシンプルなロジックが伝えられている。またこれは決して「偉い、君は人殺しをしなかったからなあ」などと称賛されるべきものでは断じてない。先に述べた「法律は最低限の道徳を定めたもの」ということばの通りである。

Ⅱ.怒るな、暴言を吐くな、恨むな

 そうした当時の常識にイエスは挑戦するのだが、これが実に手厳しい。22節には「兄弟に対して怒る」ことに対する裁きが語られている。原文ではここの「怒る」には現在分詞が用いられているから、瞬間的な感情の高まりとしての怒りというよりも「怒り続けること」が主要な焦点になるとは思うが、人間と言うのはとかく六つ数えて怒りを収めるどころか、それを反芻し、恨みの力に変えることが実に多いもの。しかしその結果は「裁き」なのである。そして注解者たちはこの「裁き」がなされるのは人の裁判所ではなく、神の法廷であるとする。もう一つ注目したいのはイエスがここで「兄弟」ということばを連続して用いていることである。つまりこのイエスの教えは教会内での怒りや暴言、更にはうらみということについて記していると考えるべきだ。キリスト者はともに主にある兄弟姉妹なのだから、ともにキリストにあって、聖霊によって、キリストのからだなる教会に組み入れられたお互いに対して怒りを燃やし、暴言を吐き、ねちねちといつまでも赦さない姿勢をとるならば、神がその人を裁かれ、その結果は悲惨なものになる(22節)。だからこそキリスト者は内省につとめ、謝るべきはあやまって、和解しなければならないのである、なぜなら私たちキリストの兄弟は皆、キリストの赦しを体験したものだからである。そういうわけで私たちに必要なことは怒りの炎に記憶と言う名のガソリンを供給し、何時までも怒り続けることではなく、主にあって兄弟をゆるし、自らの罪は謝罪して和解につとめることなのである。

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 Ⅰコリント六章において、パウロは教会内の問題は教会内で解決することを強く勧めているが、その底層には今朝学んだイエスの教えがあると思う。私たちは主に従う者であり、イエスに対する信仰、終末に対する希望、そして御霊の愛によって、この世の法を越える愛の支配の中を生きている者たちだ。そんな私たちがわざわざ世俗の法の世界に降り、そこでの「事実認定」を盾に自らの正統性を弁護するというのはなんとも残念。「まあ待て。話せばわかる」と青年将校たちを必死に宥め、「問答無用」の声の中で銃撃されてなお「今の若いもんを呼べ、話して聞かせることがある」と言った犬養毅はノン・クリスチャンじゃないか。だとすればキリストの愛にふれた私たちがすぐに「訴えてやる」ではあまりに悲しい。友よ、日々聖霊の助けを求め、御霊の実を実らせていただこう。そこには法を越えた世界がある。
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